1 :樽悶 ★:2024/09/18(水) 23:53:11.44 ID:1T7nANud9
カテゴリ: 歴史
【歴史】下関に朝鮮通信使復元船が来港 260年前の雰囲気満喫 山口 [窓際被告★]
1 :窓際被告 ★:2024/08/24(土) 18:53:53.37 ID:zpE3+a5d9
下関に朝鮮通信使復元船が来港 260年前の雰囲気満喫
江戸時代に朝鮮王朝が日本に送った外交使節「朝鮮通信使」の復元船が、経由地としてゆかりのある山口県下関市に来港し、歓迎セレモニーが24日開かれた。通信使船が最後に下関に来たのは1764年。市民は船内見学や伝統芸能の観賞を通じ、260年前の雰囲気を味わった。
復元船は全長約34m、149トンの木造で二つの帆がある。韓国の国立研究所が6年前に建造し、航行用にディーゼルエンジンを積んでいる。7月31日に釜山を出発し、長崎県の対馬、壱岐などを経由する航路を再現。今月21日に入港した。
日韓の約200人が朝鮮通信使の行列も再現した。船は26日に下関を出港予定だ。
共同通信 2024年08月24日 17時50分
https://www.47news.jp/11382292.html
【歴史】連戦連勝のモンゴル帝国はなぜ突然ヨーロッパ征服をやめたのか、ウィーンを征服目前 ★2 [樽悶★]
1 :樽悶 ★:2024/08/24(土) 01:18:13.53 ID:DpaE1edn9
■チンギス・ハーンと後継者による征西、「軍事史上最も効果的で華麗な侵攻」
(省略)
1223年、チンギス・ハーンははるか西方のカスピ海と黒海の北のキプチャク平原に住むテュルク系遊牧民のクマン人の征服を計画し、ジェベとスブタイという2人の優れた武将に2万の軍勢を与えて討伐に向かわせた。
モンゴル軍の攻撃が迫っていることを知ったクマン人の指導者コチャンは、東スラブ系のルーシ人のキエフ(キーウ)大公国に助けを求め、8万人の連合軍を編成した。
数で劣っていることを知ったモンゴル軍は、相手を欺く作戦に出た。スブタイはみすぼらしい装備の2000騎の軍勢のみを率いて進軍し、連合軍の大軍を見たら「パニックになって逃げるふり」をするように命じた。
この策略に引っかかった連合軍はモンゴル軍を9日間にわたって追いかけ、現在のウクライナのマリウポリ近くのカルカ川までおびき出されると、ここで待ち構えていたジェベ率いる本隊に攻撃され、大敗を喫した(カルカ河畔の戦い)。これが、ヨーロッパでのモンゴル軍の最初の勝利だった。
しかし、モンゴル軍はその先の侵攻に失敗すると中央アジアに戻っていった。その後、将軍たちは中国北部で金の征服に赴くことになるが、この遠征は何年も長引いた。
■再びヨーロッパへ
チンギス・ハーンが1227年に没し、後継者となった息子のオゴデイ・ハーンが西方への新たな攻勢を命じたのは1235年のことだった。オゴデイは、クマン人とその同盟国を完全に制圧しようと考え、12年前に父が送り込んだ軍団をはるかに上回る10万人規模の騎馬軍団を編成した。
オゴデイは甥のバトゥ・ハーンを西征の指揮官に任命した。モンゴル軍はボルガ川上流域から侵入し、クマン人、アラン人、ブルガール人の軍勢を破り、再びキエフ大公国を攻撃した。1237年末、ロシア最初の巨大要塞リャザンは6日間の包囲戦の末、陥落した。
バトゥ・ハーンとその軍隊は、キエフ大公国の諸都市を席巻した。1240年末にはキーウが、9日間の包囲戦の末に陥落した。モンゴル軍は捕虜の軍事知識を取り入れたことで知られ、中国の攻城兵器や可燃性の液体や火薬は、このとき初めてヨーロッパで使用された。
(省略)
■モンゴル軍の侵攻と突然の撤退
その後、バトゥ・ハーンとスブタイは、軍事史上最も効果的で華麗な侵攻を組織した。モンゴル軍は3つの部隊に分けられ、ウクライナから別々のルートで目的地に向かい、700キロ離れた2つの地点からほぼ同時にヨーロッパに攻め入った。
モンゴル軍の部隊の1つは2万人からなり、ポーランド南部に侵攻した。1241年4月9日、彼らはヘンリク2世が率いるポーランド人、モラビア人、テンプル騎士団の連合軍と現在のポーランド、レグ二ツァ郊外(ワールシュタット)で激突した。
モンゴル軍は旗や鏑矢(かぶらや、音の鳴る矢)で互いに連絡を取り合う襲撃隊を組織し、フェイント攻撃と撤退するふりを繰り返して連合軍を混乱させた。また、重騎兵をかく乱し、歩兵を無防備にするため、煙幕も使って攻撃した。
モンゴル軍はワールシュタットの戦いで重要な勝利を収めた。ヘンリク2世は戦死し、モンゴル軍は数週間にわたりヘンリク2世の首を槍の先に刺して掲げていた。
この勝利からわずか2日後の1241年4月11日、本隊を率いるバトゥ・ハーンは、モヒでベーラ4世率いるハンガリー軍を撃破した。モヒの戦いでは、「ネルゲ」と呼ばれる残忍な作戦が用いられた。これは、馬に乗って獲物を円形に囲み、円を小さくしながら獲物を仕留める狩猟戦術だ。
この戦いで、ハンガリー軍は1万人以上の兵士を失い、ベーラ4世はクマン人の護衛とともに追っ手をかわしてアドリア海の小島に逃げ延びた。
モンゴル軍は、モヒの戦いの後、ハンガリーの首都ストリゴニウム(現在のエステルゴム)を略奪した。ハンガリー人の抵抗によりモンゴル軍はドナウ川の西側に9カ月間押しとどめられていたが、冬の寒さでドナウ川が凍結するとモンゴル軍の大軍勢が川を渡り、ついにウィーンに到達した。
ところが完全な征服を目前にしてモンゴル軍の進撃は突然止まり、モンゴル高原へと撤退していった。1242年春のことだった。
(省略)
最近の考古学研究により、ハンガリー侵攻におけるモンゴル軍の死傷者数は、これまで報告されていた数よりも多かったことが明らかになっている。この大損害がモンゴルの将軍たちに退却を決意させたのかもしれない。(以下ソース)
8/21(水) 18:03配信
https://news.yahoo.co.jp/articles/24d43e099909c8a3980ee9873aa84650a6406bb7
★1:2024/08/22(木) 02:51:36.66
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1724262696/
【歴史】「牟田口廉也は無能、悪玉、卑劣の“三冠王”と言ってもいい」 各界専門家が分析する“無責任”日本陸軍エリートの実名 ★2 [樽悶★]
1 :樽悶 ★:2024/08/14(水) 13:20:29.29 ID:leLjh6Fb9
保阪正康、川田稔、山下裕貴、新浪剛史、楠木建
太平洋戦争で日本を敗戦に陥れたエリート軍人を分析すると、現在の日本でも通じる巨大組織の問題が浮かび上がってくる。なぜエリートは愚策に走るのか。昭和の陸軍軍人を題材に、歴史、軍事、経営の専門家が座談会に集まり、「日本型エリート」の欠点を総括した。
■牟田口、服部、辻は人間的にも“悪玉”
楠木 昭和の陸軍軍人で、会社経営をするとしたら、最強の布陣はどうなるかを、経営学的観点から私なりに考えてみました。まず代表取締役社長は永田(鉄山)か石原(莞爾)。その下で、実際に事業を率いて貰うとしたら、栗林(忠道)、宮崎(繁三郎)、今村(均)、山下(奉文)などの方々が適任かと思いました。
新浪 栗林さんは経営者も出来ると思うな。競争相手に対してどう戦うべきか。その戦略を立てて実現する力は抜群ですから。あと海軍で恐縮だけど、最後の海軍大将の井上成美もいいと思います。先を見て人を育てていた。経営者は次世代の人材をどう育成するのかも、非常に重要ですからね。石原は、誰かがダメになった時のプランBとして使うのならいいかもしれない。
楠木 なるほど。ちなみに私が絶対に会社にいて欲しくない軍人が、3人います。牟田口と服部卓四郎と辻政信です。この3人は能力に問題があっただけでなく、人間的にも相当“悪玉”だったのではないかと思います。
新浪 私も牟田口は最も評価できない軍人です。第15軍司令官として、兵站を無視した杜撰な計画で3万人もの兵士を失った1944年のインパール作戦は、あってはならない作戦でした。
川田 牟田口も二・二六事件で運命が変わった1人です。40代半ばころは参謀本部で庶務課長を務めるなど、飛ぶ鳥を落とす勢いの時期もあった。しかし皇道派だったこともあり、事件後は北京の歩兵第1連隊に左遷されます。
保阪 いつか功績をあげて、軍中央へ戻りたいと思っていたのでしょう。連隊長として盧溝橋事件を引き起こしたのも、功を焦ってのことでしょうね。
山下 以前、盧溝橋を見に行ったことがあります。牟田口は太平洋戦争がはじまると師団長としてマレー進攻作戦に参加し、その後、シンガポールに向かいました。そこで出撃する部下に対して「お前とはもう会えないだろう」と言っている。部下が死ぬという前提に立って考えているんですね。それがインパール作戦の兵站軽視につながる。
新浪 糧秣を現地調達するという方針には賛同できません。実際、この戦いでは戦死者だけでなく、多数の方が餓死や病死されています。また、現地で調達すれば、当然、現地の人たちから不評も買うことになります。
■牟田口は戦後も「弱腰の師団長が悪い」と言い続けた
保阪 この作戦自体も、一つには牟田口自身の焦りから生まれたものでした。上長にあたるビルマ方面軍司令官の河辺正三中将に「閣下と本職はこの戦争の根因となった支那事変を起こした責任があります。この作戦を成功させて、国家に対して申し訳がたつようにせねばなりません」と言ったといいます。
もう一つの理由が東條でした。東條は大東亜会議でアジアの解放を決議し、国策としたにもかかわらず、お題目だけに終わっていた。そこに牟田口が「戦えば必ず勝つ。私には自信がある」と、最初は作戦決行を渋っていた東條を精神論で説得。最終的には、インパール作戦がインド独立の後ろ盾になるという政治的判断から、敢行されることになったのです。(以下ソース)
https://news.yahoo.co.jp/articles/7ab2c2f23693c3ce5f465701d4d87fb8a7a88e6b
(省略)
保阪 私は服部(卓四郎)と辻(政信)は旧軍のエリートの悪いところが如実に表れている人だと考えています。派閥の引きで出世し、失敗しても責任を取らず、戦後は自分たちの失敗が無かったかのように振舞う。
楠木 服部と辻は共に陸軍幼年学校出身で、陸士、陸軍大学校を優等卒の俊才でした。服部の方が陸士は2期上ですね。
保阪 2人が最初に問題を起こしたのはノモンハン事件です。関東軍作戦主任参謀だった服部は、作戦の積極拡大を作戦参謀の辻と共に主張したところ、ソ連軍の大規模攻勢により大打撃を被ってしまいます。しかし東條の機嫌を取るような報告をすることで、服部は一時閑職に移るも、すぐに栄転しました。
辻も部下に責任を押し付けました。部下を査問した後、何も言わずにピストルを置いて部屋を出て行った。自殺の強要です。結果、辻も軽い処分で済んだのです。(以下ソース)
https://news.yahoo.co.jp/articles/6db55fa39d6724f681dcc4a2c3911125272a641f
★1:2024/08/14(水) 01:59:09.42
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1723568349/
【歴史】日本人はなぜ山本五十六が好きなのか? “名将”に感情移入してしまうこれだけの理由 ★2 [樽悶★]
1 :樽悶 ★:2024/08/14(水) 13:15:00.83 ID:leLjh6Fb9
最後まで開戦に反対し続け、昭和18年、前線視察の際ブーゲンビル島の上空で戦死した山本五十六。日本人はなぜ悲運の名将に惹かれるのか。ここでは『 昭和の名将と愚将 』(文春新書)より一部抜粋。その理由を半藤一利、保坂正康のふたりが解き明かす。
■なぜ日本人は山本が好きなのか
保阪 しかし、これだけ、戦後、山本五十六が有名になったのも、ヒーローとして語られていくうちにいろんな逸話が神話化されていったからだと思うんです。実際にリアルタイムでの山本の評価というのは、どんなものだったんでしょうか。
半藤 真珠湾攻撃の時点では、国民はそれほど知らなかったはずですよ。大戦果の発表後に「連合艦隊司令長官は山本五十六大将なり」とラジオで聞いた覚えがある。
保阪 すると、その頃から山本の名前が国民に浸透していくわけですね。
半藤 国民レベルでいえば、稀代の名将ですよ。何せ、ミッドウェー海戦だって負けてないですから。ガダルカナルだって転進と言ってごまかされた。
保阪 そうやって国民レベルでは伏せられていたわけですね。
半藤 後に言われる山本と天皇がツーカーだったというのも作り話のようですね。12月1日に御前会議で開戦が決まり、3日に山本が呉から上京してくるんですが、このときの「小倉庫次侍従日記」によれば、山本の拝謁は、10時45分からの5分間だけです。これでは肝心なことは何も伝えられませんよ。
保阪 しかし、真珠湾攻撃のあとしばらくは、天皇が勅語を出しつづけますよね。そのなかでも連合艦隊に対しては、特によく出しています。だから、天皇が山本を信頼していた様子はあるように思いますが……。
半藤 これは、推定の域を出ませんが、もし、天皇が山本を信頼していたとすれば、それは、昭和14年に米内光政、山本、井上成美のトリオが三国同盟を潰したというのが非常に印象に残っていたんだと思います。この三国同盟が一度立ち消えになったことを、天皇は非常に評価しています。
保阪 ひいては、現在における山本の評価にも結びついていますよね。やはり、アメリカの国力を把握した上で、対米戦を避けようとしたという点が大きい。彼は、大正14年にアメリカに駐在武官として赴いたときに、その工業力に圧倒されて、こんな国と戦争するべきではないと言ったそうですね。
(省略)
半藤 山本さんの悲劇は、自分の反対する戦争の陣頭に立たねばならなかったことです。ですから、早期終結のために真珠湾攻撃をあえて言えば失敗を覚悟して考えたのです。
保阪 でも、これだけ中枢部に反対派がいて、連合艦隊長官の作戦が採用されたというのも不思議な話ですよね。
半藤 それも山本の悲劇で、瓢箪から駒で、どうせ軍令部が反対しているからつぶれると思っていた。9月の図上演習の段階ではまだまだもめている。それで、10月に東條内閣が成立したのと同じ頃に、やっと承認される。そうなると軍令部が命令書を出して一気に準備が始まる。
保阪 海軍は以前からアメリカを仮想敵国にしていましたが、それは、南洋での戦闘を考えていたんですよね?
■山本五十六に日本人が感情移入しやすい理由
半藤 そうです。最初はフィリピンの北方あたりで、大海戦をやるつもりだったんです。それが、船や飛行機の性能があがったため、マリアナ沖で決戦するという想定になった。いずれにしても迎え撃つ作戦で、積極的攻勢作戦ではありませんでした。
保阪 日本では、真珠湾まで乗り込んで叩くという発想自体が、開戦半年前までまったくなかった。黒島の案を採用した山本が、博打好きといわれる所以ですね。
半藤 日本の艦隊は近海での戦闘しか想定していないから、航続距離もそんなに長くない。とりあえず出撃してきた敵艦隊をバーンと日本の近海で叩いて一気に講和に持ち込もうと。
保阪 しかし、緒戦の勝利でそのまま戦い続け、分水嶺となったミッドウェーでも結局失敗して責任を取れないまま死んでしまった。途中で死んでしまったというのも、また日本人にとって感情移入しやすいんでしょうね。
半藤 山本が死んだとき、新橋の元芸者さんで恋人だった河合千代子さんという人がいるんですが、この人が山本五十六が書いたラブレターを持っていたんです。海軍省はこれは表に出してはならないということで、沼津にいた千代子のところへ行って、強制的に焼かせたんですが、とくによい手紙は無事だった。千代子が隠したんですね。(以下ソース)
8/10(土) 6:12配信
https://news.yahoo.co.jp/articles/a47fc1ad52c1ac3dd4f784848ac066febb22ffdb
★1:2024/08/13(火) 23:59:24.44
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1723561164/
【歴史】日本人はなぜ山本五十六が好きなのか? “名将”に感情移入してしまうこれだけの理由 [樽悶★]
1 :樽悶 ★:2024/08/13(火) 23:59:24.44 ID:sNABzlE89
最後まで開戦に反対し続け、昭和18年、前線視察の際ブーゲンビル島の上空で戦死した山本五十六。日本人はなぜ悲運の名将に惹かれるのか。ここでは『 昭和の名将と愚将 』(文春新書)より一部抜粋。その理由を半藤一利、保坂正康のふたりが解き明かす。
■なぜ日本人は山本が好きなのか
保阪 しかし、これだけ、戦後、山本五十六が有名になったのも、ヒーローとして語られていくうちにいろんな逸話が神話化されていったからだと思うんです。実際にリアルタイムでの山本の評価というのは、どんなものだったんでしょうか。
半藤 真珠湾攻撃の時点では、国民はそれほど知らなかったはずですよ。大戦果の発表後に「連合艦隊司令長官は山本五十六大将なり」とラジオで聞いた覚えがある。
保阪 すると、その頃から山本の名前が国民に浸透していくわけですね。
半藤 国民レベルでいえば、稀代の名将ですよ。何せ、ミッドウェー海戦だって負けてないですから。ガダルカナルだって転進と言ってごまかされた。
保阪 そうやって国民レベルでは伏せられていたわけですね。
半藤 後に言われる山本と天皇がツーカーだったというのも作り話のようですね。12月1日に御前会議で開戦が決まり、3日に山本が呉から上京してくるんですが、このときの「小倉庫次侍従日記」によれば、山本の拝謁は、10時45分からの5分間だけです。これでは肝心なことは何も伝えられませんよ。
保阪 しかし、真珠湾攻撃のあとしばらくは、天皇が勅語を出しつづけますよね。そのなかでも連合艦隊に対しては、特によく出しています。だから、天皇が山本を信頼していた様子はあるように思いますが……。
半藤 これは、推定の域を出ませんが、もし、天皇が山本を信頼していたとすれば、それは、昭和14年に米内光政、山本、井上成美のトリオが三国同盟を潰したというのが非常に印象に残っていたんだと思います。この三国同盟が一度立ち消えになったことを、天皇は非常に評価しています。
保阪 ひいては、現在における山本の評価にも結びついていますよね。やはり、アメリカの国力を把握した上で、対米戦を避けようとしたという点が大きい。彼は、大正14年にアメリカに駐在武官として赴いたときに、その工業力に圧倒されて、こんな国と戦争するべきではないと言ったそうですね。
(省略)
半藤 山本さんの悲劇は、自分の反対する戦争の陣頭に立たねばならなかったことです。ですから、早期終結のために真珠湾攻撃をあえて言えば失敗を覚悟して考えたのです。
保阪 でも、これだけ中枢部に反対派がいて、連合艦隊長官の作戦が採用されたというのも不思議な話ですよね。
半藤 それも山本の悲劇で、瓢箪から駒で、どうせ軍令部が反対しているからつぶれると思っていた。9月の図上演習の段階ではまだまだもめている。それで、10月に東條内閣が成立したのと同じ頃に、やっと承認される。そうなると軍令部が命令書を出して一気に準備が始まる。
保阪 海軍は以前からアメリカを仮想敵国にしていましたが、それは、南洋での戦闘を考えていたんですよね?
■山本五十六に日本人が感情移入しやすい理由
半藤 そうです。最初はフィリピンの北方あたりで、大海戦をやるつもりだったんです。それが、船や飛行機の性能があがったため、マリアナ沖で決戦するという想定になった。いずれにしても迎え撃つ作戦で、積極的攻勢作戦ではありませんでした。
保阪 日本では、真珠湾まで乗り込んで叩くという発想自体が、開戦半年前までまったくなかった。黒島の案を採用した山本が、博打好きといわれる所以ですね。
半藤 日本の艦隊は近海での戦闘しか想定していないから、航続距離もそんなに長くない。とりあえず出撃してきた敵艦隊をバーンと日本の近海で叩いて一気に講和に持ち込もうと。
保阪 しかし、緒戦の勝利でそのまま戦い続け、分水嶺となったミッドウェーでも結局失敗して責任を取れないまま死んでしまった。途中で死んでしまったというのも、また日本人にとって感情移入しやすいんでしょうね。
半藤 山本が死んだとき、新橋の元芸者さんで恋人だった河合千代子さんという人がいるんですが、この人が山本五十六が書いたラブレターを持っていたんです。海軍省はこれは表に出してはならないということで、沼津にいた千代子のところへ行って、強制的に焼かせたんですが、とくによい手紙は無事だった。千代子が隠したんですね。(以下ソース)
8/10(土) 6:12配信
https://news.yahoo.co.jp/articles/a47fc1ad52c1ac3dd4f784848ac066febb22ffdb
https://newsatcl-pctr.c.yimg.jp/t/amd-img/20240810-00072333-bunshun-000-1-view.jpg
【歴史】「牟田口廉也は無能、悪玉、卑劣の“三冠王”と言ってもいい」 各界専門家が分析する“無責任”日本陸軍エリートの実名 [樽悶★]
1 :樽悶 ★:2024/08/14(水) 01:59:09.42 ID:oeCFercY9
保阪正康、川田稔、山下裕貴、新浪剛史、楠木建
太平洋戦争で日本を敗戦に陥れたエリート軍人を分析すると、現在の日本でも通じる巨大組織の問題が浮かび上がってくる。なぜエリートは愚策に走るのか。昭和の陸軍軍人を題材に、歴史、軍事、経営の専門家が座談会に集まり、「日本型エリート」の欠点を総括した。
■牟田口、服部、辻は人間的にも“悪玉”
楠木 昭和の陸軍軍人で、会社経営をするとしたら、最強の布陣はどうなるかを、経営学的観点から私なりに考えてみました。まず代表取締役社長は永田(鉄山)か石原(莞爾)。その下で、実際に事業を率いて貰うとしたら、栗林(忠道)、宮崎(繁三郎)、今村(均)、山下(奉文)などの方々が適任かと思いました。
新浪 栗林さんは経営者も出来ると思うな。競争相手に対してどう戦うべきか。その戦略を立てて実現する力は抜群ですから。あと海軍で恐縮だけど、最後の海軍大将の井上成美もいいと思います。先を見て人を育てていた。経営者は次世代の人材をどう育成するのかも、非常に重要ですからね。石原は、誰かがダメになった時のプランBとして使うのならいいかもしれない。
楠木 なるほど。ちなみに私が絶対に会社にいて欲しくない軍人が、3人います。牟田口と服部卓四郎と辻政信です。この3人は能力に問題があっただけでなく、人間的にも相当“悪玉”だったのではないかと思います。
新浪 私も牟田口は最も評価できない軍人です。第15軍司令官として、兵站を無視した杜撰な計画で3万人もの兵士を失った1944年のインパール作戦は、あってはならない作戦でした。
川田 牟田口も二・二六事件で運命が変わった1人です。40代半ばころは参謀本部で庶務課長を務めるなど、飛ぶ鳥を落とす勢いの時期もあった。しかし皇道派だったこともあり、事件後は北京の歩兵第1連隊に左遷されます。
保阪 いつか功績をあげて、軍中央へ戻りたいと思っていたのでしょう。連隊長として盧溝橋事件を引き起こしたのも、功を焦ってのことでしょうね。
山下 以前、盧溝橋を見に行ったことがあります。牟田口は太平洋戦争がはじまると師団長としてマレー進攻作戦に参加し、その後、シンガポールに向かいました。そこで出撃する部下に対して「お前とはもう会えないだろう」と言っている。部下が死ぬという前提に立って考えているんですね。それがインパール作戦の兵站軽視につながる。
新浪 糧秣を現地調達するという方針には賛同できません。実際、この戦いでは戦死者だけでなく、多数の方が餓死や病死されています。また、現地で調達すれば、当然、現地の人たちから不評も買うことになります。
■牟田口は戦後も「弱腰の師団長が悪い」と言い続けた
保阪 この作戦自体も、一つには牟田口自身の焦りから生まれたものでした。上長にあたるビルマ方面軍司令官の河辺正三中将に「閣下と本職はこの戦争の根因となった支那事変を起こした責任があります。この作戦を成功させて、国家に対して申し訳がたつようにせねばなりません」と言ったといいます。
もう一つの理由が東條でした。東條は大東亜会議でアジアの解放を決議し、国策としたにもかかわらず、お題目だけに終わっていた。そこに牟田口が「戦えば必ず勝つ。私には自信がある」と、最初は作戦決行を渋っていた東條を精神論で説得。最終的には、インパール作戦がインド独立の後ろ盾になるという政治的判断から、敢行されることになったのです。(以下ソース)
8/13(火) 6:12配信
https://news.yahoo.co.jp/articles/7ab2c2f23693c3ce5f465701d4d87fb8a7a88e6b
(省略)
■失敗してもなぜか舞い戻る
保阪 私は服部(卓四郎)と辻(政信)は旧軍のエリートの悪いところが如実に表れている人だと考えています。派閥の引きで出世し、失敗しても責任を取らず、戦後は自分たちの失敗が無かったかのように振舞う。
楠木 服部と辻は共に陸軍幼年学校出身で、陸士、陸軍大学校を優等卒の俊才でした。服部の方が陸士は2期上ですね。
保阪 2人が最初に問題を起こしたのはノモンハン事件です。関東軍作戦主任参謀だった服部は、作戦の積極拡大を作戦参謀の辻と共に主張したところ、ソ連軍の大規模攻勢により大打撃を被ってしまいます。しかし東條の機嫌を取るような報告をすることで、服部は一時閑職に移るも、すぐに栄転しました。
辻も部下に責任を押し付けました。部下を査問した後、何も言わずにピストルを置いて部屋を出て行った。自殺の強要です。結果、辻も軽い処分で済んだのです。(以下ソース)
8/13(火) 6:12配信
https://news.yahoo.co.jp/articles/6db55fa39d6724f681dcc4a2c3911125272a641f
【歴史】「できるだけ長く苦しんで」…腸がとびだしあふれる血の中で破顔、10数時間後に息絶えた「特攻の父」大西瀧治郎中将 ★2 [樽悶★]
1 :樽悶 ★:2024/08/13(火) 19:13:15.62 ID:l7kgzmdn9
大西瀧治郎中将
https://newsatcl-pctr.c.yimg.jp/t/amd-img/20240809-00072715-bunshun-000-2-view.jpg
(省略)
今日われわれは大西中将を「特攻の父」とよんでいる。特攻作戦を発案し、それを実行に移した提督という意である。地下に眠る大西もまた、その名をかならずしも拒否するものではないことであろう。全責任を一身に負って自刃したかれの胸中には、十万億土で散華した多くの若者の先頭に立つの想いがあったであろうから。
しかし、歴史的事実を深くたずねれば、そこに疑問なしとはしないのである。特攻戦術が採用されるに至るまでの経過は、きわめて混沌として見極めがつけにくい。一概に、大西中将の提唱によって、などと結論づけることは事実を見失うこととなろう。
昭和19年7月、サイパン島を失い、戦局は日本帝国にとって最悪の段階を迎えた。本土全部がB29の爆撃圏内に入ることを意味し、軍事工業が壊滅すれば近代戦の遂行は不可能になる。当時、軍需省航空兵器総局の総務局長であった大西は、この事態に対応すべく断乎たる処置を強請する意見書を、海軍大臣嶋田繁太郎(しまだ・しげたろう)大将に突きつけた。
その所見が海軍中央を震撼させるのと前後して、東条英機(とうじょう・ひでき)内閣が総辞職し小磯国昭(こいそ・くにあき)内閣が成立、海軍首脳部が一新してしまう。しかし大西の意見書の波紋はおさまらぬどころか、いっそう荒立ち、10月5日付で大西の南西方面艦隊司令部付が発令される。やがて、つぎの決戦正面であるフィリピンの第一航空艦隊司令長官に任命されるであろうふくみが、その裏にあった。
■「零戦に250キロ爆弾を抱かせて体当りをやるほかに…」
この最前線転出が、はたして懲罰人事であったのか、それとも決戦正面へ海軍航空のエースを登場させる重要な意味をもっていたものなのか、真相は曖昧模糊(あいまいもこ)とした霧の中にある。しかも人事発令4日後の10月9日、大西は蒼惶(そうこう)として東京を去るのである。
(省略)
「山本司令とはマニラで打ち合わせずみである。副長の意見はただちに司令の意見と考えてさしつかえないから、万事、副長の処置にまかす、ということであった」
と言った。しかし、事実は、マニラで大西は山本司令と会ってなんかいなかった。ということは、大西が完全な嘘をついて、玉井副長に決定的な判断を求めたことになる。
ここで少し前のところを読み直してほしい。大西はまだこのときは南西方面艦隊司令部付の一中将で、なんの命令権も決定権もない。であるから、わたくしは大西中将と書いてきた。第二〇一航空隊を指揮する第一航空艦隊司令長官に正式に任命されるのは、翌10月20日なのである。ならば、玉井副長をだましたりせず、長官になってから大西は正々堂々と話し合えばよかったのである。大西はそれをしなかった。何故なのか。
■軍令部起案の電報文にすでにあった「敷島隊」の名
ここに一通の興味深い電報が残っている。軍令部の源田実(げんだ・みのる)参謀の起案になるもので、日付は昭和19年10月13日。
(省略)
この電報起案は、大西中将が東京を離れた数日後に、すでにして書かれている。しかも、何ということか、神風攻撃隊の名も決められている。さらに言えば、10月20日に特攻作戦が正式発令となり、大西が名付けたという本居宣長の「敷島の大和心を人問はば……」の歌に発する敷島隊、大和隊、朝日隊、山桜隊の攻撃隊名も、この電報の中にある。
この合致は決して偶然なんかではない。明らかに、体当り攻撃は作戦の総本山軍令部の発案、そして決定によるものであったことを語っている。つまり特攻という非人間的な攻撃の責任は、海軍中央が負うべきものである。大西はその実施命令の発動者になる役割を負わせられて、早々に東京を旅立った。しかし、大西には長官として「命令だけはしたくない」の深い想いがあったと思われる。それが真夜中の、まだ一中将の提案となり、玉井副長への欲せざるごまかし発言となった。
■「特攻なんてものは、統率の外道の外道だ」
明治24年(1891)生まれ、海兵40期、144人中の20位で卒業、頭も決して悪くない。生えぬきの航空屋として山本五十六大将の信頼の厚かった大西は、単なる我武者羅な勇猛、豪胆の士ではない。親分肌の人情家、神経もこまやかであった。そして作戦は九死に一生をもって限度とす、自分ができぬことを命令してはならぬ、そうしたよき海軍魂を身につけた闘将でもあったのである。(以下ソース)
https://news.yahoo.co.jp/articles/5095b701648259788649f80f6abb7bf74aaa0ed2
★1:2024/08/12(月) 23:51:40.25
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1723474300/
【歴史】「できるだけ長く苦しんで」…腸がとびだしあふれる血の中で破顔、10数時間後に息絶えた「特攻の父」大西瀧治郎中将 [樽悶★]
1 :樽悶 ★:2024/08/12(月) 23:51:40.25 ID:qNM3XFa99
大西瀧治郎中将
https://newsatcl-pctr.c.yimg.jp/t/amd-img/20240809-00072715-bunshun-000-2-view.jpg
(省略)
■「特攻の父」の偶像を背負って
今日われわれは大西中将を「特攻の父」とよんでいる。特攻作戦を発案し、それを実行に移した提督という意である。地下に眠る大西もまた、その名をかならずしも拒否するものではないことであろう。全責任を一身に負って自刃したかれの胸中には、十万億土で散華した多くの若者の先頭に立つの想いがあったであろうから。
しかし、歴史的事実を深くたずねれば、そこに疑問なしとはしないのである。特攻戦術が採用されるに至るまでの経過は、きわめて混沌として見極めがつけにくい。一概に、大西中将の提唱によって、などと結論づけることは事実を見失うこととなろう。
昭和19年7月、サイパン島を失い、戦局は日本帝国にとって最悪の段階を迎えた。本土全部がB29の爆撃圏内に入ることを意味し、軍事工業が壊滅すれば近代戦の遂行は不可能になる。当時、軍需省航空兵器総局の総務局長であった大西は、この事態に対応すべく断乎たる処置を強請する意見書を、海軍大臣嶋田繁太郎(しまだ・しげたろう)大将に突きつけた。
その所見が海軍中央を震撼させるのと前後して、東条英機(とうじょう・ひでき)内閣が総辞職し小磯国昭(こいそ・くにあき)内閣が成立、海軍首脳部が一新してしまう。しかし大西の意見書の波紋はおさまらぬどころか、いっそう荒立ち、10月5日付で大西の南西方面艦隊司令部付が発令される。やがて、つぎの決戦正面であるフィリピンの第一航空艦隊司令長官に任命されるであろうふくみが、その裏にあった。
■「零戦に250キロ爆弾を抱かせて体当りをやるほかに…」
この最前線転出が、はたして懲罰人事であったのか、それとも決戦正面へ海軍航空のエースを登場させる重要な意味をもっていたものなのか、真相は曖昧模糊(あいまいもこ)とした霧の中にある。しかも人事発令4日後の10月9日、大西は蒼惶(そうこう)として東京を去るのである。
(省略)
「山本司令とはマニラで打ち合わせずみである。副長の意見はただちに司令の意見と考えてさしつかえないから、万事、副長の処置にまかす、ということであった」
と言った。しかし、事実は、マニラで大西は山本司令と会ってなんかいなかった。ということは、大西が完全な嘘をついて、玉井副長に決定的な判断を求めたことになる。
ここで少し前のところを読み直してほしい。大西はまだこのときは南西方面艦隊司令部付の一中将で、なんの命令権も決定権もない。であるから、わたくしは大西中将と書いてきた。第二〇一航空隊を指揮する第一航空艦隊司令長官に正式に任命されるのは、翌10月20日なのである。ならば、玉井副長をだましたりせず、長官になってから大西は正々堂々と話し合えばよかったのである。大西はそれをしなかった。何故なのか。
■軍令部起案の電報文にすでにあった「敷島隊」の名
ここに一通の興味深い電報が残っている。軍令部の源田実(げんだ・みのる)参謀の起案になるもので、日付は昭和19年10月13日。
(省略)
この電報起案は、大西中将が東京を離れた数日後に、すでにして書かれている。しかも、何ということか、神風攻撃隊の名も決められている。さらに言えば、10月20日に特攻作戦が正式発令となり、大西が名付けたという本居宣長の「敷島の大和心を人問はば……」の歌に発する敷島隊、大和隊、朝日隊、山桜隊の攻撃隊名も、この電報の中にある。
この合致は決して偶然なんかではない。明らかに、体当り攻撃は作戦の総本山軍令部の発案、そして決定によるものであったことを語っている。つまり特攻という非人間的な攻撃の責任は、海軍中央が負うべきものである。大西はその実施命令の発動者になる役割を負わせられて、早々に東京を旅立った。しかし、大西には長官として「命令だけはしたくない」の深い想いがあったと思われる。それが真夜中の、まだ一中将の提案となり、玉井副長への欲せざるごまかし発言となった。
■「特攻なんてものは、統率の外道の外道だ」
明治24年(1891)生まれ、海兵40期、144人中の20位で卒業、頭も決して悪くない。生えぬきの航空屋として山本五十六大将の信頼の厚かった大西は、単なる我武者羅な勇猛、豪胆の士ではない。親分肌の人情家、神経もこまやかであった。そして作戦は九死に一生をもって限度とす、自分ができぬことを命令してはならぬ、そうしたよき海軍魂を身につけた闘将でもあったのである。(以下ソース)
8/9(金) 6:12配信
https://news.yahoo.co.jp/articles/5095b701648259788649f80f6abb7bf74aaa0ed2
【歴史】「倭」「ヤマト」の意味とは? 邪馬台国の場所を知るカギとなる「日本語に隠されたヒント」とは? [樽悶★]
1 :樽悶 ★:2024/07/20(土) 23:56:32.45 ID:yCu9vqKV9
邪馬台国はどこにあったのか——。歴史学者・桃崎有一郎氏は、まず「邪馬台」の読み方は「ヤマタイ」ではなく「ヤマト」であり、そこから多くのことが見えてくるという。続けて桃崎氏が着目するのは、「倭」「ヤマト」という二つの言葉の、古代における定義や使い分けだった。
■入れ子構造の発生
飛鳥時代のように行政区分としての「ヤマトノクニ」を「倭国」と書くと、女王卑弥呼のもとで中国・朝鮮半島諸国と国交した王朝の「倭国」と、区別がつかなくなる。そこが重要だ。「倭」は、「ヤマト(最上層)」と「ヤマト(中間層)」という、規模が違う2つの領域を示す意味を持ったのである。
しかも、先に述べた通り、「ヤマト(中間層)」は、その内部にさらに「ヤマト(最下層)」を包み込んでいた。そして、その「ヤマト(最下層)」も最終的に「大和」と書かれた以上、ほかの「ヤマト」と同様に、古い一時期には「倭」と書かれたと考えねばならない。事実、その「ヤマト(最下層)」を支配した「ヤマトのクニノミヤツコ」は、『日本書紀』や『古事記』で「倭(、)国造」と書かれている。
『古事記』には14例「倭(ヤマト)」が現れるが、そのうち大多数の12例が確実に「ヤマト(中間層・最下層)」である(残る1例は解釈を確定できず、もう1例は国生み神話で本州を指す「大倭国(やまとのくにの)豊秋(とよあき)津(つ)島(しま)」〔神野志隆光説〕)。さらに、(歌謡を除く)地の文に現れる「倭(ヤマト)」という地名は8例すべて、「ヤマト(最下層)」と解釈して問題ないことも判明している(直木孝次郎説)。
以上のように、日本語地名「ヤマト」も、漢字地名「倭」も、3つの異なるスケールで使われた。その関係は、「倭(ヤマト)(最下層)」を「倭(ヤマト)(中間層)」が包み込み、それをさらに「倭(ヤマト)(最上層)」が包み込むという、マトリョーシカのような入れ子構造だった。これら3つの「倭(ヤマト)」は、別々に独立して生まれたはずがない。一つ以上がまず最初に生まれ、残りが派生したと考えるのが自然だ。
■「倭」には固有の意味がない
ところで、「倭」を「ヤマト」と読むのは、当然ではない。「倭」に「ヤマト」という日本語を宛てることは、日本語話者(倭人)が意図的に、強い理由に基づいて行ったことだ。では、「倭」を「ヤマト」と読むべき必然性は、どこにあるのか。
そう思って調べてみると、面白いことがわかる。「倭」という字には、意味がない(、、、、、)のだ。「倭」の字の意味とされているものはすべて、ベースになった「委」の字が持つ意味であり、「倭」の字には固有の意味がない。正確にいえば、〈「委」という発音の人や土地を指す固有名詞〉という意味しかない。「倭」は、固有名詞を表すためだけに「委」に人偏をつけて生み出された字らしい。
通常、漢字に日本語の訓を宛てる時は、その漢字が持つ意味に対応する日本語を宛てる。ところが、「倭」の字には意味がないので、機械的に訓を宛てられない。「倭」と「ヤマト」は、〈この2つが同じ地域を指す〉という政治的判断や決定(、、、、、、、、)によって結合したと考えなければならない。
ところが、前述の通り、「倭」も「ヤマト」もそれぞれ、3つの規模の地域を指した。では、どの規模の地域を指す「倭」と「ヤマト」が、なぜ、いかにして結合したのか。それを知るには、「倭」と「ヤマト」がそれぞれ、原義としてはそもそもどこを指す地名だったのかを、踏まえなければならない。
「倭」については簡単だ。「倭」は、後漢(25~220年)までに中国が〈日本列島・日本列島人を呼ぶ固有名詞〉と決めた言葉であり、そう決まって以後、中国人も朝鮮半島人も、その用法を逸脱しなかった。「倭」は、数十の小さな「国」を内部に持つ一つの民族全体(、、)と、彼らの居住する一つの広い地域全体(、、)を指した。前述の通り、『日本書紀』でも、注に引用された中国や朝鮮半島の史書は100%例外なく、「倭」をその意味だけで使った。つまり、「倭」は明らかに、統一王朝の国号へとつながる最上層の用法から始まっていた。その数百年の伝統を経た後に出現した中間層や最下層の「倭」は、後から生まれたと考えるしかない。
■「ヤマト」は狭い地域の地名
では、「ヤマト」も同じように考えられるかというと、できない。統一王朝の国号を「ヤマト」と呼んだ最も古い確実な用例は、8世紀前半の『日本書紀』まで下るのである。(以下ソース)
7/20(土) 6:12配信
https://news.yahoo.co.jp/articles/a5640db88dd47f7eec398498634a0963fc555bcc
https://bunshun.jp/mwimgs/1/9/1200wm/img_19b406e77392bb8d2dabad5a9efc283565128.jpg
【歴史】人種差別や排斥、米国で今も 排日移民法、成立100年 [Ikhtiandr★]
1 :Ikhtiandr ★:2024/05/26(日) 17:43:57.36 ID:JSuVo+2N9
https://img.5ch.net/ico/anime_morara01.gif
【ロサンゼルス共同】1924年に米国で日本人移民を全面的に禁じた排日移民法が成立して26日で100年。多様な背景を持つ移民と子孫から活力を得てきた米国だが、人種差別や排斥は1世紀を経た今も社会にはびこる。移民の問題は11月の大統領選でも主要争点となり、有権者に国のあるべき姿を問いかける。
排日移民法の正式名称は「1924年移民法」で、出身国や人種に基づき「米国にふさわしい人物」を決める考え方に依拠した。南欧や東欧からの移民制限も狙い、移民の年間受け入れ上限数を、1890年の国勢調査時点に米国に住んでいた外国出身者数の2%に引き下げると定めた。
米国では近年、メキシコを経て不法に流入する中南米出身者らが急増し、厳格な移民政策を歓迎する有権者が増えている。大統領返り咲きを目指すトランプ前大統領は昨年12月、不法移民が米国の「血を汚している」と発言した。
排日移民法の推進者らは当時、新たな移民が「国の根幹を成してきた血統を汚す」と主張した。かつての議論が1世紀を経た今日の差別的な言動と重なる。
Yahoo!Japan/共同通信 5/26(日) 15:25配信
https://news.yahoo.co.jp/articles/93a8e068ef556990b18546f5d4facdc4e0e64e92
【歴史】仁徳天皇陵にイスラエルの失われた十支族「ガド族」の証拠があった?! ★3 [樽悶★]
1 :樽悶 ★:2024/04/24(水) 15:27:36.67 ID:dpbpu2FW9
文=ナオキ・コムロ(ミステリーニュースステーションATLAS編集部)
古代史において、日本へ渡来してきたユダヤ人すなわち古代イスラエルの失われた十支族が日本人の祖先・ルーツであるという日ユ同祖論。賛否飛び交う議論が今日に至るまで展開されている中で、文化、言語、物品などからイスラエルと日本とに多くの共通点が存在しているという意見も多くなされている。
失われた十支族とは、旧約聖書に記されたイスラエルの十二支族のうち、行方知れずとなった十支族を指している。十二支族は、ユダヤ人の始祖アブラハムの孫ヤコブの12人の息子たちが形成した12の部族に由来しており、それら部族がダビデ王によって統一されイスラエル王国となった。
しかし、息子のソロモン王が没してまもなく、二支族からなるユダ王国と十支族からなる北イスラエル王国に分裂した。その後台頭してきたアッシリアによって北イスラエル王国が滅ぼされ、十支族は逃亡し姿を消したと言われている。
その十支族の中に、「ガド族」という部族が含まれているのだが、このガド族が皇室のルーツと関連しているのではないかという説がある。北イスラエル王国が滅んで十支族が姿を消した頃からユダ王国がバビロンに滅ぼされた紀元前722~584年までの間に、皇紀元年が成立しているということから、時期的には矛盾がないという意見がなされている。
そもそも、天皇を意味する「みかど」という語そのものに由来が残されているとも言われている。牧師であった小谷部全一郎によると、天皇を意味する「ミカド」という言葉は、もともと「ミガド」と発音されていたものであり、「御ガド」としてガド族にルーツがあると主張した。また、ラビ(ユダヤ教の聖職者)であるサミュエル・グリーンバーグによれば、「ミカド」はヘブル語で「ガド族出身」を意味しているとしている。
皇室のルーツに、古代イスラエル人が関連しているのではないかという根拠はこれ以外にもある。古代イスラエルには「アロンの杖」「十戒の書かれた石板」「マナの壺」という三種の神器が存在していたと言われている。これらが入れられた箱「アーク」が日本に眠っているという説も有名であるが、このうちの「マナの壺」に非常に酷似したものがあるというのだ。
大阪府堺市にある大山陵古墳、通称「仁徳天皇陵」は、第16代天皇である仁徳天皇を埋葬した古墳であると言われている。日本最大の古墳かつ世界最大級の墳墓とも言われるこの古墳は、その形状が鍵穴のような「前方後円墳」として知られているが、この形状が先述した「マナの壺」に似ているという指摘がある。
マナの壺は、砂漠を彷徨っていたモーゼ率いるイスラエルの民が飢えていた際に、神が天より降らせた「マナ」という食物を入れたと聖遺物であるという。そのマナは、どれだけ食べても減ることがなく民の飢えを癒したと言われている。実は、これにも似た話が仁徳天皇の説話に存在するのだ。
ある日、仁徳天皇が高い山に登って国土を見渡すと、民家から炊煙が立っていないことに気が付いた。みんなが貧しい思いをしているからに違いないと考えた仁徳天皇がその後3年間人々へ税を免除させると、あちこちから炊煙が立ち上るようになり人々は豊かに栄えていったという。「民のかまど」として有名なこの説話であるが、飢えから民を救ったという構造がマナの壺とも似ていると言える。
現在、宮内庁の意向によって内部の調査が許されていない仁徳天皇陵であるが、今後許された際に決定的な遺物が発見されることは果たしてあるのだろうか。
2024.04.19 16:00
https://tocana.jp/2024/04/post_263947_entry.html
https://tocana.jp/wp-content/uploads/2024/04/NintokuTomb.jpg
★1:2024/04/23(火) 08:25:08.99
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1713850600/